某書簡集を読んでいて

時々、書簡集に目を通して、読めない字を探します。これはもう習性といいますか、勉強不足なものですから、知らない字形を見つけると嬉しいのです。
そんなことをしていると、なにか校正しているようで、翻刻の誤りを見つけることもあります。
だからどうということでも無いのですが、優れた読み手も誤ることがあるのだと知ると、私如き拙い読み手はよほど氣を引き締めてかゝらねば、誤読に誤読を重ねる醜態を晒すことになると、改めて感じるのです。


翻刻「稚子單語」とあるも、これは「稚子学語」と読むべきところ。うっかり「單」にしてしまったのだと思います。


翻刻「古義令に」。これは「真率言に」と読まなければ、突如として脈絡の無い語を放り込むことになります。


翻刻「懶慢之罪御用捨」。「之」でしょうか、私はどうもこれに引っ掛かり、「大罪」にすべきかと思いますが、なにか「大」とも言い切れない、しかし「之」ではなさそうだという妙な字形です。「之」字を書こうとして書き損じたという判断でしょうか。

 
翻刻「遅刻、漸々只今」。この「刻」字は手元の字書三冊に見当らず、さて「刻」に見えるものゝ「刻」だろうか?という感想です。文脈はたしかに「刻」として問題はなく、これで良さそうにも思います。
もう一つの画像は、以前読めずに放って置いた字です。字形はよく似ています。私は「奉壽候」あたりに落ち着くかと、これは似て非なる字のようです。


翻刻「宜敷御啓聲返却奉願候」。まず「啓」ではなく「致」ですね。そしてこゝに「返却」とくるのはどうもおかしいです。かといって適切な読み筋を見つけられず、取り敢えず「宜敷御致聲希奉り候」と考えます。


次に知らなかった字形です。


翻刻「自己流」。「流」字の「川」のところを真ん中から入る形は既に知っていたのですが、総体に見たときなにか違う字形に見えて仕方なく、この「流」字ではっきりと認識しました。


翻刻「一別如隔世」。「如」字のこの字形を知りませんでした。「口」が下につく形です、納得です。


翻刻「出かけゆへ艸々申殘候」。この「艸々」の読み筋は知りませんでした。

この書簡集は、各書簡をそれぞれの先生方が担当して翻刻・解説しており、どうも他者による校正はなされていないように感じられます。
冩眞入りの出版物ですから、誤読を見つけるのは容易であり、これが後世に残るかと思うとなかなか勇氣のいる行為です。

とはいえ、日本書籍協會の書簡集を読んでいて(これは字ばかりですから誤読があろうが無かろうがたちどころに分らないのですが)、たまに実物を見て比べてみると、翻刻の一通一通ごとにいくつかの誤読が見付かるものです(複写のときの漢字・平仮名の差はさておき、誤読のことです)。昔の出版物ですから、現代よりも熟練の読み手が多い筈にもかゝわらず、どういうわけか?よほど急ぎの仕事で読んでいたのかと想像します。

また、当ブログでもしばしば取り上げた『頼山陽書翰集』を見ても分るように、誤読は少なからずあります。というより書翰によっては多いとさえ言えます。これは冩眞のあるものゝみを見ての話しですから、ほかも推して知るべく、今回こゝに取り上げた某書簡集に誤読があるからといって、決して読み手の技倆が劣っているわけではない、と念のため断っておきます。